『君と会えたから・・・・・・ (喜多川 泰シリーズ)』の感想を書きました
相変わらず喜多川先生の言葉は説得力がある。おそらく本書で書かれている内容はありていなものも多く含んでいる。ただ響き方が違う。 特に本書では「素直に勝る天才なし」「円はありがとうと読む」という内容に心惹かれた。 人生は有限。ハイデッカーではないが常に死という必ず平等に訪れるものに目を向け、1日1日を大切に生きていこう。
まだ名刺がありません
パピヨンさんはまだ「名刺がわりの9冊」を設定していません。
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『君と会えたから・・・・・・ (喜多川 泰シリーズ)』の感想を書きました
相変わらず喜多川先生の言葉は説得力がある。おそらく本書で書かれている内容はありていなものも多く含んでいる。ただ響き方が違う。 特に本書では「素直に勝る天才なし」「円はありがとうと読む」という内容に心惹かれた。 人生は有限。ハイデッカーではないが常に死という必ず平等に訪れるものに目を向け、1日1日を大切に生きていこう。
『潜在意識を使いこなす人 ムダにする人』の感想を書きました
目標から逆算し、マイルストーンを策定し、実行することで自己実現を果たしていく。より明確かつ強い目標を持つことで潜在意識の力を借りることができる。結局のところ目の前の行動、思考の積み重ねが潜在意識(直観?)を作り上げて思考回路を自動化していく。つまり、ここでいう目標設定は目の前の判断をより賢明なものにする1つのスタンダードとして活用するものである。 とはいえ、大きな判断を迫られたとき、下した判断が本当に正しかったのかどうか人は不安になる。その際にその正しさを問わず信じてやり抜く力を私の中で自信と定義する。仮にそれが遠回りな選択だったとしても自分で経験することによって、不正解の確証へと変わる。エジソンの言葉を想起させる。本を読んで得た知識は付け焼き刃でしかなく、それを実際に行動に取り入れ失敗したり成功したりすることで深みが増す。
『株式会社タイムカプセル社 新版 十年前からやってきた使者 (喜多川 泰シリーズ)』の感想を書きました
あとがきにも記されていたが、喜多川先生のメッセージは重みがある。はっとする、確かにと納得させられる、そんな力がある。 これまでの自分の人生の中でなんとなく感じていつつも言語化できていなかったり確信を持てていなかった仮説に確証を持つための後押しをしてくれる。 この本で確証に変わった仮説は「強さとは器であり乗り越えた苦難の数と優しさに比例する」ということである。人は誰しも強い人というとどんな人にも毅然とした態度で動じない人、堂々と自信があるように見える人を想像する。ただそれは本当の強さなのだろうか?本当の強さは人を許せる器であり、その優しさを持てるだけ苦労と苦難を重ねてきた人である。 相手がしている苦労に共感するには自分がそれに苦労した経験が必ず必要である。
『運転者 未来を変える過去からの使者 (喜多川 泰シリーズ)』の感想を書きました
4年前に読了した1冊。 ふとKindleに出てきたので再読。 改めて「運」というものについて考える機会となった。 私は「運」という言葉があまりすぎてはない。よく「運がよくなる本」などの類の本があるが興味を惹かれない。理由は運というのは自分の行動が積み重なったり繋がって生じた事象に対して、その要因の言語化を放棄しているからである。 「運が良かったから」といえばうまくいった理由を言語化するというめんどくさい作業は不要である。また「運が悪かったから」といえばその要因を実在しないものに押し付け、内省から逃げることもできる。 確かに「運」は存在する。生まれや容姿、頭脳、親などは先天的な要素が強く、後天的に変えられないものもる。つまり言い換えれば「自分の行動や思考によって変えられないもの」に運は関わる。 ただ、私はそんなものについて考えてどうするの?と思う。変えられないものに対して考え悩む暇があるなら変えられるものに目を向けるべきでは? そういう意味で言うと、本書は運を題材にしつつも「上機嫌」「見返り」「他者貢献」など思考のスタンスに目を向けており、行動や思考法に主軸を置いているため読みやすく感化されやすい物語であった。
『心は存在しない』の感想を書きました
人間の悩みはつまるところ感情に起因する。ただその感情を(特にマイナスの)生き物のように、ある意味人間味を持って扱ってしまうとしんどくなるのは自分自身ではないだろうか? 感情はあくまで外界の出来事に対する脳の反応であり、ある種「ヒト」のシステムである。我々は昔から道徳や義理、人情を擦り込まれているが故に感情を大切に扱いすぎている。ただそれをあえて対極的に、言い換えればドライに扱うことによって楽になる側面も大いにあるのではないだろうか。
『読書する人だけがたどり着ける場所』の感想を書きました
知識は世界の解像度を高める。美術館で絵を見るという行為がもっとも象徴的である。ただこの本を読んで思ったのは知識を乱用し、自己満足することは善ではないという点。必要以上に引用を用いて知識をひけらかす行為は恥ずべきこと。自分の意見に説得力を持たせるための引用。あるいは第三者話法の応用としての活用が教養あるものであり、下品でないように感じた。
『教養として学んでおきたいニーチェ』の感想を書きました
この人は結局自分の中で答えを見つけることができたのだろうか。人生は苦しくつまらないものであるという考え方自体は間違っていないと思う。よく人生は楽しんだもの勝ち!のような言葉があるが、楽しもうと思うだけで楽しめるなら苦労しない。むしろなんでもかんでも楽しめるという考え方は楽しくないことに対する抵抗を高め、楽しいことの希少価値を下げる。その結果幸せのハードルは上がり、逆に楽しめることが少なくなる。だから前提として人生は辛く苦しいものであり、楽しいことのほうがむしろ異常という認識には共感できる。 ただ、この人の場合その苦しい人生を幸せに生きるための解決策があまりにも抽象的であり、言葉になっていない。ニーチェ風にいうならばそもそも幸せを感じるために生きること自体間違っているのかもしれないが、仮に人生に目標や目的を据えなかった場合にどうなるかは結局ニーチェ自身が証明している(狂乱し廃人のように生涯を終える)。
『教養として学んでおきたい哲学』を読了として記録しました
・「自己中心」への気づき ニーチェ、カントに非常に関心を持った。その理論は机上の空論ではなく現実的で受け入れやすいものであった。またやはり多く名前を聞く人物や物語は単純接触効果の影響か興味を惹かれやすい。 逆にマルクスの理論は全く共感できなかった。 理論というか、そもそもそれを考える意義を見出せなかった。仮に社会構造に問題があったとして、一人間に出来ることは限りがある。多大なる影響力があれば話は変わるが、少なくとも今の自分には「自分の力だけで社会なんか変わらない。また社会を変えるために人生を捧げるつもりはない。」と思えた。 またこれに派生して「自分のメリットになるかどうか」が自分の中の揺るがない判断軸になることも気づいた。他者貢献はどこまでも偽善。世界平和を心から望んでいても、深ぼれば「世界平和になったら自分が嬉しいから、満足できるから」という結論に行き着く。だから別に偽善は悪いことでもなんでもない。むしろ「本気で相手のために」などと考えるから見返りを求めたくなる。 「自分が幸せになるついでに周りも幸せにする」くらいの気持ちが等身大。
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君と会えたから・・・・・・ (喜多川 泰シリーズ)
相変わらず喜多川先生の言葉は説得力がある。おそらく本書で書かれている内容はありていなものも多く含んでいる。ただ響き方が違う。 特に本書では「素直に勝る天才なし」「円はありがとうと読む」という内容に心惹かれた。 人生は有限。ハイデッカーではないが常に死という必ず平等に訪れるものに目を向け、1日1日を大切に生きていこう。
潜在意識を使いこなす人 ムダにする人
目標から逆算し、マイルストーンを策定し、実行することで自己実現を果たしていく。より明確かつ強い目標を持つことで潜在意識の力を借りることができる。結局のところ目の前の行動、思考の積み重ねが潜在意識(直観?)を作り上げて思考回路を自動化していく。つまり、ここでいう目標設定は目の前の判断をより賢明なものにする1つのスタンダードとして活用するものである。 とはいえ、大きな判断を迫られたとき、下した判断が本当に正しかったのかどうか人は不安になる。その際にその正しさを問わず信じてやり抜く力を私の中で自信と定義する。仮にそれが遠回りな選択だったとしても自分で経験することによって、不正解の確証へと変わる。エジソンの言葉を想起させる。本を読んで得た知識は付け焼き刃でしかなく、それを実際に行動に取り入れ失敗したり成功したりすることで深みが増す。
株式会社タイムカプセル社 新版 十年前からやってきた使者 (喜多川 泰シリーズ)
あとがきにも記されていたが、喜多川先生のメッセージは重みがある。はっとする、確かにと納得させられる、そんな力がある。 これまでの自分の人生の中でなんとなく感じていつつも言語化できていなかったり確信を持てていなかった仮説に確証を持つための後押しをしてくれる。 この本で確証に変わった仮説は「強さとは器であり乗り越えた苦難の数と優しさに比例する」ということである。人は誰しも強い人というとどんな人にも毅然とした態度で動じない人、堂々と自信があるように見える人を想像する。ただそれは本当の強さなのだろうか?本当の強さは人を許せる器であり、その優しさを持てるだけ苦労と苦難を重ねてきた人である。 相手がしている苦労に共感するには自分がそれに苦労した経験が必ず必要である。
運転者 未来を変える過去からの使者 (喜多川 泰シリーズ)
4年前に読了した1冊。 ふとKindleに出てきたので再読。 改めて「運」というものについて考える機会となった。 私は「運」という言葉があまりすぎてはない。よく「運がよくなる本」などの類の本があるが興味を惹かれない。理由は運というのは自分の行動が積み重なったり繋がって生じた事象に対して、その要因の言語化を放棄しているからである。 「運が良かったから」といえばうまくいった理由を言語化するというめんどくさい作業は不要である。また「運が悪かったから」といえばその要因を実在しないものに押し付け、内省から逃げることもできる。 確かに「運」は存在する。生まれや容姿、頭脳、親などは先天的な要素が強く、後天的に変えられないものもる。つまり言い換えれば「自分の行動や思考によって変えられないもの」に運は関わる。 ただ、私はそんなものについて考えてどうするの?と思う。変えられないものに対して考え悩む暇があるなら変えられるものに目を向けるべきでは? そういう意味で言うと、本書は運を題材にしつつも「上機嫌」「見返り」「他者貢献」など思考のスタンスに目を向けており、行動や思考法に主軸を置いているため読みやすく感化されやすい物語であった。
心は存在しない
人間の悩みはつまるところ感情に起因する。ただその感情を(特にマイナスの)生き物のように、ある意味人間味を持って扱ってしまうとしんどくなるのは自分自身ではないだろうか? 感情はあくまで外界の出来事に対する脳の反応であり、ある種「ヒト」のシステムである。我々は昔から道徳や義理、人情を擦り込まれているが故に感情を大切に扱いすぎている。ただそれをあえて対極的に、言い換えればドライに扱うことによって楽になる側面も大いにあるのではないだろうか。
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